津地方裁判所 昭和32年(ワ)191号 判決 1958年8月29日
原告 谷川静枝
被告 松林こま
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は、原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は、被告は原告に対し金一万円を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。との判決並びに右第一項につき仮執行の宣言を求め、請求原因事実として、左の通り述べた。
被告は、別件の谷川孝次を原告、畑中安次郎、中山島両名を被告とする津地方裁判所昭和三〇年(ワ)第一〇一号慰藉料請求事件について、昭和三二年五月八日付で証明書と題する本判決末尾綴付の別紙写し通りの文書を作成した。そして、同証明書は右事件の昭和三二年六月二一日の口頭弁論期日に乙第九号証として提出された。
しかるところ、原告は、右谷川孝次の妻であるが、同証明書の記載中、訴外谷川孝次の去妻中山島が離婚の調停を申し立てた点と被告が津市丸之内本町に居住している点を除いては、いずれも事実に反する虚構のことがらであり、なかんづく、原告が昭和二七年末頃から右谷川の情婦であり、右中山島が谷川の家を去つた日の翌日である昭和二八年四月一七日には原告が子供二人を伴つて谷川家に入いりこんだとある点は悪意にみちた誹謗である。しかも、被告は、右中山島にそそのかされて、それが虚構のことがらを証明しようとする文書でありかつ、裁判所に対し右中山島が当事者となつている前述の訴訟事件における防禦方法として提出されることを知りながらこれを作成し、右中山島に引き渡したものである。
それで、原告は、被告の右所為によつて、原告の有する名与権を著しく侵害されたから、原告は、当然、それにより原告の蒙つたその精神的苦痛を慰藉するため、被告に対し相当な金員を請求し得べきところ、原告は、昭和二三年三月先夫に死なれ昭和二八年六月二五日前述の谷川孝次と結婚の式を挙げ、以来旅館業を営む同人の妻として、同人とともに在り、昭和三〇年六月四日右婚姻届出を了し、三人の子供の母として、また、右谷川の二三才になる息の義母として、さらに三人の従業員を使用する主婦として、右損害賠償金として、相当である金一万円の支払を求めるため本訴に及んだと。
立証として、原告訴訟代理人は、甲第一二号証、第三号証の一、二を提出し、証人別所庄太郎、谷川孝次の各証言並びに原告本人尋問結果を援用し、乙第一号証の成立を認めた。
被告訴訟代理人は、原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め、請求原因事実に対する答弁として、左の通り述べた。
原告主張の文書を被告において作成したことは認めるが、同文書の記載が虚構であり、原告を誹謗するものであるとの主張は否認する。右文書は、右中山島が文案を認め、被告において、それがかねて見聞するところと相違ないことを知り、被告作成の文書として裁判所へ事件の書証として右中山島方から提出されることを承知のうえ、同旨の証明書を書き与えたまでで、被告自身は右文書を裁判所に提出しておらないから、右作成交付により、原告の名誉権を直ちに侵害するものと言うことはできない。
なお、右中山島とその夫谷川孝次との間に離婚の調停が成立したのは、昭和二八年四月一六日であり、その戸藉吏への届出がなされたのは、同年五月二五日であるので、右離婚届出前に右谷川と愛情関係にたつ婦人は「情婦」と称すべきであるが、右文書中原告谷川静枝の氏名を摘示した箇所はなく、したがつて、原告を「情婦」なりと明示したところの文言はない。それ故、第三者が読むときは右情婦が原告を指すことは不明であり、わずかに原告と前述の谷川孝次との関係をすでに知るものにおいてのみこれを推知できるにすぎない。それのみならず、右文書記載のことがらは、被告において見聞するところであり、かつその聞き及んでいたところも真実であつたので、これを作成したのである。それに、右文書が裁判所に提出されるとするもこれを閲読するものは裁判所と相手方のみで、しかも、公正な裁判の資料として真実を表明するものである以上、原告の名誉を毀損し、被告においてその損害賠償の責任を負わねばならないものとは到底いうことができない。さらに、原告が主張する原告の訴外谷川孝次と婚姻するに至る経緯や同訴外人が旅館業を営み、原告がその妻として、子女や使用人に対する関係はいずれも不知であると。
そして、被告は、右文書が別件の谷川孝次を原告、畑中安次郎、中山島両名を被告とする津地方裁判所昭和三〇年(ワ)第一〇一号慰藉料請求事件について作成され、同事件の昭和三二年六月二一日の口頭弁論期日に乙第九号証として提出されたことは明かに争つておらない。
立証として、被告訴訟代理人は、乙第一号証を提出し、証人中山島の証言と被告本人尋問の結果を援用し、甲各号証の成立を認めた。
理由
被告が別件の谷川孝次を原告、畑中安次郎、中山島両名を被告とする津地方裁判所昭和三〇年(ワ)第一〇一号慰藉料請求事件について、昭和三二年五月八日付で証明書と題する本判決末尾綴付の別紙写し通りの文書を作成したことは当事者間に争いがなく、同証明書が右事件の昭和三二年六月二一日の口頭弁論期日に乙第九号証として提出されたことは被告の明かに争わないところで、その自白があつたものとみなす。また、被告が右文書を事件当事者である中山島に対し、それが裁判上の証拠として援用されることを知つて、作成交付したことは同被告の自陳するところであり、その成立に争いのない甲第二号証並びに弁論の全趣旨から原告が前示訴訟事件の原告である谷川孝次の妻であることが認定できる。
ところで、原告は、右文書が原告の名誉を毀損する内容をもつ旨主張するので考察する。
まず、右文書である甲第一号証の記載のみによると、その文意は、一応前示谷川孝次のその先妻に対する仕打ちを云云しているものと解すべく、そこに「情婦」として表示されている者は、そのための引き合いに出されているものというべきであつて、このことは、同文書が作成交付されるに至つた前示経過や証人谷川孝次の証言から認められる同文書が右谷川を相手方として前示中山島に対する慰藉料請求事件について提出されたことからも当然である。
しかし、同文書にある情婦なる一婦人に対して世人の批難をひきおこすに足るその行為が表示されていることも否定することができない。ところで、その情婦が原告であることが一読瞭然であるとは到底いいがたい。それは、同文書中には全然原告の氏名を摘示しておらないのみならず、前認定から原告を指示する「現在の谷川様の後妻」なる文言も唯一箇所にこれを見出しうるだけで、その前後の文句から見ると「・・・谷川様の後妻と子供も其の時見ました・・・」とあつて傍点した「も」の一助字で、文中の情婦が右谷川の後妻即原告を指すことが紛わされている。そして、右文書の記載だけからは、あるいは原告や右子供の他にその場に居合せた女性があつて、それが前示情婦に当るのではないかとの疑問を生ぜしめないこともない。しかしながら、原告が右谷川孝次の妻であることを知り、かつその婚姻に至るいきさつについてその成立が争いのない右甲第一号証や被告本人尋問の結果から近隣で噂話のあつたことが窺知できるので、その様な噂話しを聞き及んでいた者にとつては、右文中の「情婦」がまさに原告を指摘するものであることは直ちに了解できるところである。しかも、同文書が書証として裁判所に提出されたことが前示の通りであれば、直ちにそれは訴訟記録の一部となるべく、訴訟記録が原則として何人にも閲覧を許されていることから、不特定多数人が右文書を閲覧する機会をもつものと言わなければならない。もつとも前示の様に事情を知る者しか、文中の情婦が原告であることを判じがたいわけではあるが、なお、不特定な人達が右文書を閲覧できるものというべきで、被告は、原告の名誉を毀損するに足る文書を不特定な人達に示したことになり、やはり、原告の名誉を毀損したものと解するのを相当とする。
しかしながら、ひるがえつて考えると、右文書は公然明白に原告の非行を書きあげているものとは言いがたく、むしろ事情を知る世間の一部の人達にのみそこに情婦とあるのが原告をさすことを了知せしめるにすぎない点から、それが原告の名誉を毀損するところは、比較的薄弱であると解せられる。さらに、証人中山島の証言と被告本人尋問の結果によると、右文書中、原告の所為に関する部分は被告が右中山島や近所の人達から聞知したことや実見したところを誌したものであり、その聞知にかかることがらについても、その成立について争いのない乙第一号証や右中山島の証言から訴外谷川孝次と中山島間に調停離婚が昭和二八年四月一六日成立し、翌日右島は谷川方を去り、右離婚の届出が同年五月二五日なされたことが認められる他、右中山島の証言や被告本人尋問結果から右聞知にかかることがらに類した事実を推知できなくはなく、その記載も事実に背反したものと解しがたい。そしてこれらの点についての証人別所庄太郎、谷川孝次の各証言の一部並びに原告本人尋問の結果の一部は容易に信用することができず、右文書中原告に関し全然虚構に属することがらが記載されているものとする原告の主張は採用できない。また、被告本人尋問の結果から、被告も、右文書は前示中山島の文案により認めたものであるが、その内容を自分の見聞にてらして真実であることを認めて作成し、また裁判所に提出する書証として、公正な裁判に役立てんとの意図のあつたことが窺知できるうえ、被告が近隣の同性で、その夫であつた者から訴訟を提起されて窮境にあることを知り、求められて、かかる文書を作成交付したことは社会通念上恕すべき一面のあることを認めなければならない。
そうすると、右文書の作成交付の所為が前示の通り原告の名誉を毀損し、原告に対する社会的評価を減殺し、またその名誉感情を刺戟するものがあることは容易に伺われるが、しかもなお、不法行為を構成するに足る違法性を欠くものと判定するのが相当であり、ひいては、被告において、その不法行為に基く責任を有しないものと認めなければならない。
したがつて、原告のその余の主張について、さらに判断を進めるまでもなく、原告の請求を失当として、これを棄却すべく訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条に則り、主文の通り判決する。
(裁判官 松本重美 西岡悌次 露木靖郎)
(別紙)証明書
住所 津市丸之内本町二、一二九
氏名 松林こま <印>
大正七年三月七日生
私は津市丸之内本に居住致して居ります干係上津ホテル裏エビス浴場に行きます昭和二七年頃より谷川様が奥様を虐待するとの近所の噂さひどく其の横暴さは浴場で皆々様の話の種でしたが昭和二七年末頃より谷川様は情婦を家に入れるべくますます奥様に暴力を加へますので堪へかねて裁判所に離婚調停を申立てたと聞いて居りましたが昭和二十八年四月中頃奥様がすぐ出て行くとすぐ情婦が子供二人連れて入り込んだと聞いてましたので浴場へ行く時のぞき込みましたら世間の噂通り現在の谷川様の後妻と子供も其の時見ました、この事実は皆近所の人が知つて居ります奥様を出した翌日情婦を入れた事は間違ひござゐません谷川様は裁判所に於て其の証人が九月に結婚したと申して居るそうですがそれはまつたくの誤りで奥様が出られて翌日引入れた事は事実であります。
昭和三十二年五月八日
松林こま <印>